オーストラリアの思い出

 

ティークラム指導員ニシオカのブログへようこそ。

 

今回は、塾のことを書くのはお休みにして、私のプライベートなことについて記します。

 

 

私のお気に入りの国はオーストラリアです。

もちろん、日本の次に好きだということですが・・・。

 

2001年に留学しましたが、もう17年も前のことです。

その後、毎年のように訪問を繰り返し、やみつきになっていました。

いろいろな思い出、それらは定期的に思い出さなければ、記憶から消えてしまうでしょう。

そこで、ブログに残しておき、何年経っても忘れないようにしようと思いました。

旅行好きな人、オーストラリアネタに興味のある人は、以下の長文にお付き合いください。

 

2001年8月15日、今でも日付は覚えていますが、この日に日本を経ちました。

関空発ブリスベン行き、カンタス航空、飛行時間は9時間弱でした。

ブリスベンはクイーンズランド州(地図右上)の州都です。

今思えば、留学の拠点はブリスベンで良かったと思ったのですが、当時、熱帯の気候を体験したいという望みがあり、北の玄関口ケアンズに決めたのです。

なので、ブリスベン入りするも、そこから国内線でケアンズに向かいました。

地図を見れば、無駄な旅路のように思われるでしょう。

 

8月16日の昼過ぎにケアンズ空港に到着し、空港ロビーでホストマザーとその友人らしき人、彼女たちのお子さんが迎えに来てくれていました。

確か、その友人が車を運転してくれました。

ハンドルを持ったときに、二の腕のお肉がプルーンを垂れ下がっていたことが印象的でした。

空港からホームステイ先まで半時間ほどかかり、車内ではあまり話すことはできませんでした。

 

ホストマザーはインド出身で、ギ―タ(GITA)という名前でした。

インド出身なら、食事に牛肉は入っていないのかと少し残念に思っていました。

オージービーフ食べたかったなあ。

しかし、ある日の食事に牛肉が出ました!

不思議に思い、その訳をGITAに直接聞いてみました。

すると、「私はインド出身だけど、今はオーストラリア人なのよ。だから、昔の宗教のことなんか、もう関係ないの。」って感じの英語で、微笑みながら答えてくれました。

 

それから数日後、GITAの友人が3人やってきました。

ちょうど昼ごはんの時間と重なり、彼らといっしょに食事をすることになりました。

昼食を待っている間、においが漂い、それがカレーだとすぐに分かりました。

オージービーフのカレーかなと予測していましたが、違っていました。

何と、魚のカレーでした・・・。

魚といっても、フライではなく、缶詰めに入っているような魚でした。

GITAの友人3人は右手で直接カレーをつまんで食べ始めました。(彼ら以外はスプーン)

私はそれを見たとき、すぐにビーフカレーにしなかった理由が分かりました。

彼らはインド人だったのです。

現役のヒンドゥー教徒だったことは聞くまでもありませんでした。

そんな1回の食事から、異文化を肌で感じることができました。

 

つづく

 

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オーストラリアの思い出(第2回) ※2018年8月11日作成

 

8月23日は私の誕生日なんですが、17年前は人生で特別な日になりました。

オーストラリア留学を始めて1週間後が誕生日で、これは狙ったわけではないのですが、ホストファミリーが誕生日会を開いてくれたのです。

最初はホストファミリーのメンバーと私の5人で食卓を囲んだり、何かゲームをしたりするイメージを持っていましたが、それは全く違いました。

 

何と、ファミリーの友人、近隣の人たち、およそ30人のゲストが集まって誕生日会をひらいてくれたのです。私には生まれて初めての体験でした。

17年たった今でも、集まってくれたゲストの何人かは名前を覚えています。

確か、1人1人に話しかけて、その人たちのサインと好きな言葉を書いてもらいました。

酔っぱらっている人も何人かいて、好きな言葉というよりはふざけた言葉になっていたりしました。

 

食事はビールとバーベキューにサラダなどでした。

ビールはVBビア、これはビクトリア産のビールで苦みが特徴的でした。

※ビクトリアは、大陸南東部の都市メルボルンがある州の名前です。

ホストファーザーのBobのいち押しでした。

バーベキューはもちろんオージービーフです。

骨つきで赤身が多くかたい肉でした。

個人的には脂身が少なくてかたい肉は好む方なので良かったです。

あと、ソーセージが日本のものとは全く違っていました。

とにかく大きくて脂っこいのです。

これはあまり多くは食べれませんでした。

サラダは最後にたくさん残り、翌日、庭の植物のところに捨てられていました。

これを日本だともったいない!と表現しますが、彼らの文化にはその概念が無いんだと思わせるくらい、大量に捨てられていました。

 

食事が終わりかけたころ、ゲストは各自近くの人といろん話で盛り上がっていました。

子どもたちは10人くらいいて、私はその子たちと遊んでやっていました。

GitaとBobには2人の子ども(6歳の男の子、4歳の女の子)がいました。

2人ともとっても元気でした。

私がLike a helicopter.(ヘリコプターみたいに)と言いながら肩車で庭を早歩きすると、2人ともかなり興奮して喜び、くせになってしまいました。そのせいで、私は何度も何度もやらされました。

 

子どもが話す英語って、私にはかなり分かりにくかったです。

まあ、大人が話す英語もオーストラリアなまりのために分かりにくいときもありましたが・・・。

誕生日会のときにゲストから得た英語は、ある子ども、あ!ボビーという名前の女の子でした!今名前を思い出しました。

それは食べ物を指す方言、tucker(タカ)でした。

私がボビーにWhat's tucker?と尋ねたら、Tucker is food.と元気よく答えてくれたことが印象的でした。ボビー、教えてくれてありがとう。

 

そう言えば、Bobファミリーにはもう1人?家族がいたんです。

BobがHe is~.と言っていたので、人扱いなんだと分かりました。

それはクリムゾンという名前の犬なんですが、名前の意味がね、・・・、真っ赤って意味ですよね。

名前の由来は聞かなかったですが、ちょっと恐怖を感じさせる名前でした。

でも、人になつきやすい元気な犬でした。

 

夜が更けるにつれ、少しずつゲストの数は減り、真夜中過ぎにはパーティは終わりました。

Bobファミリーには、こんな素敵なパーティを開いてくれたことを感謝しています。

17年たった今も、こうやってブログに残すことができました。

思い出って一種の財産ですね。

忘れない限り、朽ちることがない。

 

その後、Bobファミリーのところには1カ月滞在し、2カ月目からBrianという老人のところに世話になるのでした。

 

つづく

 

 

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オーストラリアの思い出(第3回) ※2018年9月24日作成

 

2001年9月中旬になり、BobとGitaのところのホームステイが終了に近づき、どこか次の滞在先を探していました。Gitaが延長してもOKだと言ってくれましたが、他の滞在先に好奇心が奪われていた私は、そのオファーを断りました。

 

さて、どのように探すのか??

ケアンズの中心地には、掲示板がいくつかあり、それをチェックしていました。

そこには住居に関するものが多く、興味があれば電話をして確かめるというものでした。

掲示物の募集は、アパートで暮らすよりも、誰かと住居を共有するシェアハウスの形式が多かったです。

 

家賃はレントと呼ばれ、1週間単位での申し込みもいくつかありました。

1週間でおおよそ100~200豪ドルのレントが主流だったと記憶しています。

当時のレートは超円高で、1豪ドル60円台前半で得した気分でした。(アメリカの同時多発テロの直後)

それでも、できるだけ安い物件を探していました。

あまり住むところにこだわりはなく、要は、寝れればどこでもいいやって考えていました。

 

いろいろと物件を見て電話をかけた先は、ケアンズ中心部から車で15分くらいかかる郊外の一軒家でした。

一度下見に行くと先方に行ったら、何と、今の滞在先まで車で迎えに来てくれるとの事。

私としては、途中の道を覚えるためにも自力で行くつもりでしたが、相手の熱意に負けました。

 

オーナー(以下、ブライアン)が車で迎えに来てくれたときに、Gitaにもにこやかに挨拶をしていて、きちんとした人だという印象を受けました。

Gitaの家からブライアンの家までは車で15分程度だったと思います。

車内で、ブライアン、テンション上がっていたようでした。

 

ブライアン宅に着くと、外階段で2階に上がるときにハエが寄ってきて、そのとき、The flies are nasty.とかdisgustingとか言ってうっとうしがっていました。日本のおやじと同じ様子でした。(笑)

2階玄関に続くのは居間、その先が台所、台所の背後に通路があり、奥にいくつか部屋がありました。もちろん土足で入り、最初に貸し部屋に案内してくれました。

 

部屋の広さは4畳半程度で狭い印象、ベッドが置かれているので余計にそう思いました。

エアコンは壊れており、天井に大きなプロペラがついていました。

電源を入れると、そのプロペラが回り出し、部屋を涼しくするというもの。要は扇風機。

ベッドで大の字になってちょっと休憩して、ブライアンのところを再び訪ねると、今度はキッチンの使い方を教えてくれました。

コンロは電気で、驚くほど早く湯が沸きました。

冷蔵庫はどこでも使ってもいいとのこと。

他にシェアメイトがいなかったためでしょう。

コスパはいいが、中心地から離れているのはネックだったのかも知れません。

 

早速、近くのスーパーに食料を調達に向かいました。

運良く、徒歩で5分のところに大型のショッピングモールがありました。

オーストラリアのスーパーマーケットと言えば、ColesとWoolworthsです。

確か、Colesの方に私のお気に入りのハワイアンブレッドが置いてありました。

ハワイアンブレッドとは、ピザの一種で、ベーコンやチーズの他にパイナップルがいくつかトッピングされていました。

どちらのスーパーにもアジア食品のコーナーがあり、そこにはインスタントラーメンがいくつかありました。韓国の辛ラーメンを見た時、韓国人も結構こっちに来ているのだなと感じました。

インスタントラーメンを含めて、いろいろと購入して、ブライアン宅に戻りました。

 

昼ごはんに、インスタントラーメンを作ると、ブライアンがやって来て、私が作っている様子をうかがっていました。

調理の終盤、スープを加えるタイミングで、火をつけたままそれをやろうとすると、ブライアンがNo,No.と突っ込んで来て、火を消してからスープを入れるように命じられました。

分かっているのに・・・って返すと、ちょっと感じが悪いと思い、黙ってそれに従いました。

オーストラリア人からインスタントラーメンの作り方で指摘されるとは思ってもいませんでした。

 

食事の後、少しブライアンと話をしたとき、奥さんは既に他界されていて、息子さん(当時20歳)は別の都市に居るとのこと。

ブライアン自身は、タクシーの運転手をしていたようでしたが、半ば引退していた様子でした。

脚を悪くされていて、歩くさまが痛々しかったです。

ブリスベンで手術するかもって話していました。

※ブリスベンはクイーンズランド州の州都で、オーストラリアの大都市の1つです。

 

別の日、私が中心地に出向いたとき、土産屋をいくつか渡り歩きました。

売られている大半のものは、中国製で、結構な値がついていました。

その話をブライアンに話すと、ブライアンは怒りだしました。

ブライアンの怒りの内容を要約すると、こうでした。

「あいつら(土産屋の連中)、中国製なのにオーストラリア製だと偽って利益を上げやがっている。けしからん!本物のオーストラリア製が売れなくなるかもしれないじゃないか!!」

確かに、その怒りの気持ち、理解できました。

のちに、土産屋で少しの間バイトしていましたが、あまりお客さんに勧めたいとは思いませんでした。

 

ブライアンとの思い出で1つ面白かったのは、私のことを最初に、かおりって間違って呼んできたことでした。ナオキとカオリってまず性別が違います!

しかし、NaokiとKaoriって母音は同じなんですよね。

だから、間違えるのも仕方ないかって思いました。

 

今となれば、ブライアン、どことなくトランプ大統領に似ていました。

風貌も、怒りで熱くなったときも。

そんなブライアンとも1カ月でサヨナラすることになりました。

次は、別の都市に行こうと決めたのです。

 

 

次回は、長距離バスで大陸を縦断したことについて書こうと思います。

 

つづく

 

 

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オーストラリアの思い出(第4回) ※2018年10月7日作成

 

2001年10月の終わりごろ、私は別都市に向かおうと決めました。

まず頭に浮かんだのは、オーストラリア最大の都市であるシドニー。

ここを訪れるのは必須だなと思い、交通手段を考え始めました。

主要都市間の移動は飛行機でするのが、現地の人の中では一般的であったと思われます。

一方で、長距離バスや列車を利用する人もいました。

 

さて、どの交通手段を選ぼうか?

飛行機はコストがかかるが、早くつきます。(当たり前)

長距離バスはコストはおさえられるが、時間がかかります。(当たり前)

列車は、・・・、コストは分かりませんが、時間もかかるようでした。

現地の列車は、まったりとしたスローライフを満喫する人向けで、日本の寝台特急などはありませんでした。

 

1日考えた結果、長距離バスを利用することに決めました。

ケアンズ~シドニーまでは数日かけてやっとたどり着ける距離です。

料金は忘れてしまいました。

出発前から気疲れしていました。

まずは、クイーンズランド州の州都であるブリスベンまで1日以上かけて向かいます。

あとで細かい所要時間を調べたら、何と、32時間でした!信じられないっ!

途中、いくつか(10くらい)の停留所があり、そこでトイレ・食事の休憩がとれます。

 

市内を離れて数時間後に外を見てみると、広大な大地にまばらに茂る草木、その遠方に地平線がはっきりと目に映る景色が果てしなく続いていました。

それは映画で見るような光景でした。

しばらく外を見ていると、その単純な光景に飽きてしまい、目を閉じて眠りにつきました。

 

移動中、ここでバスが故障したら、助けが来てくれるのだろうかと少し心配しました。

そんな心配よりも、尿意の方が深刻になってしまいました。

何と、前の停留所で済ませるべきでしたが、しなかったのです。

何度か運転手に事情を話して停めてもらおうかと思いましたが、できない雰囲気だったので膀胱の違和感と闘っていました。

ようやく次の停留所が来ましたが、そこでは下車する人のみが降りることになって、他の乗客は乗ったままでした。

しかし、このチャンスを逃せば苦い思い出を背負うだろうと強く予感したので、思い切って外に飛び出し、運転手に許可を求めました。

運転手はダメだと言いましたが、私はその指示を無視して、トイレの方に走っていきました。

「ごめん、もうもれそうで我慢できないんだ。」という意味の英語を走りながら投げかけた記憶があります。

用を足して戻ってくると、運転手は笑って、「助かったな。」という感じの言葉をかけてくれました。

その言葉と表情から、オーストラリア人の寛大さを感じました。

 

食事は途中の停留所の休憩で1時間くらいあるときにしました。

オーストラリアのファストフードの定番のフィッシュアンドチップスと炭酸飲料をいただきました。

フィッシュアンドチップスは、白身魚のフライとフライドポテトの盛り合わせです。

野菜が無いので、栄養が偏ることが心配です。

でも当時はそんなことはあまり気にしませんでした。

だから、ブクブク太っていったんですがね・・・。

あと、塩分もたくさん摂ってしまいました・・・。

 

バスで16時間なんて今まで経験したことは無く、途中で停留所はいくつかあるものの、とにかく時間が経つのが遅く感じました。

翌日の朝、ブリスベンのバスターミナル(ローマストリート駅)に到着、そのときは早く床に就きたい気持ちしかありませんでした。

旅行バッグを引きずりながら、しらみつぶしで宿を探しました。

すると、セントラルステーションを出てすぐのところに、パレスバックパッカーズという安宿を探しました。

のちに、この安宿にリピータになりました。(通算5回くらい)

ここには落ち着けるシングルルームがいくつかあります。

どうも別の人と共有するドミトリーは私には不慣れでした。

1泊35ドル(当時のレートでは2000円くらい)で、シングルルームにしてはかなりコスパがよかったです。

部屋の広さは想定どおり狭くて、シャワーやトイレは共同でした。

客層は若者が多く、にぎやかでした。

週末の深夜に屋上で騒いているのがうっとうしく感じましたが、郷に入れば郷に従えだと思い、慣れようと努めました。

今となれば、そのときに私も屋上で盛り上がればよかったですね。

 

チェックインした当日は爆睡し、どのくらい眠ったのかは覚えていません。

目が覚めて、食事に出たり、ぶらぶらしたり・・・。

この宿には3日くらいいて、再びシドニーへと長距離バスで向かいました。

 

ブリスベンからシドニーまでの所要時間は約16時間です。

ケアンズからブリスベンまでの所要時間と比べると、短く感じてしまいます。

それでも、長い!

ブリスベンから約1時間南下したところにあるゴールドコーストは人気の観光地です。

ここで降りられたら楽なのになと思いながら、黄金海岸から遠ざかりました。

残り15時間・・・。

眠るしかありませんでした。

そして、いくつか停留所で一時下車しながら、ようやくシドニーに到着しました。

私の記憶の中では、ケアンズからシドニーまでは43時間でしたが、調べによると48時間でした。誤差を考慮しても、バスの移動に2日くらい要したことに違いはありません。

もう体験するのはごめんです。

人生に1度体験すれば、もう十分だと思えることの1つです。

 

 

次回は、シドニーでの体験記を書こうと思います。

 

 

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